しまってないしなってない

アガサ・クリスティーの小説が持つ射程の話

 去年担当した読書会から。レジュメやメモを読み返すと我ながら胡散臭い記述や根拠薄弱な箇所がたくさんあったので、重要そうな部分のみ抜粋して大幅に改稿した。あとクリスティーは正直あまり読んでいないので、勘違いなどあれば教えてください。

 


 

 

葉巻の灰については、専門的に研究したこともあるし、じっさい僕はそれについて論文まで書いたくらいだ。葉巻でも刻み煙草でも、在来種のものなら僕は灰を見ただけで見分けられるつもりだ。(コナン・ドイル『緋色の研究』延原謙訳)

 

いいですか、先生、わたしは科学的な操作方法に頼る人間ではありません。わたしが探るのは心理学的な面で、指紋や煙草の灰ではありません。(アガサ・クリスティーオリエント急行の殺人』山本やよい訳)

 

 コナン・ドイルアガサ・クリスティーをわざわざ並べて引用したのは、彼らが書く推理小説は「推理の方法」において全く性質が異なるように見えるからだ。シャーロック・ホームズは、基本的に足跡や指紋、煙草の灰といったイメージを「見る」ことで推理を始める。*1「あなたは○○で△△、さらには過去××の経験があり最近は■■していますね?」「一体どうして分かったんだ!?」「観察だよワトソン君」という訳だ。対して、エルキュール・ポアロが観察し推理の材料とするのは、人間の心理学的な面だという。これは「目に見えない」ものだと言い換えることが出来るかもしれない。

 

 まずは両者の共通点に着目する。こう見ると、名探偵の条件とは「有能な観察者」であることらしい。そして、ワトソン博士やヘイスティングス大佐は「無能な観察者」として叙述を担当し、読者に対して名探偵の名探偵っぷりを引き立てる。具体的な例を見てみよう。

 

「あの男はなにを探しているのかな?」と、質素な服装のがっしりした男を指さした。その男はさっきから往来のむこうがわを、しきりに家の番号札をのぞきこみながら、ゆっくり歩いているのである。大きな青い封筒を手にしているのは、きっと誰かの手紙でも届けるのだろう。

(中略)

ええと、さっきの男の手の甲には、道のむこうがわを歩いていてもちゃんと見えるくらい大きな錨の刺青があった。それだけで海の匂いがするじゃないか。しかも一方に軍人らしい態度があり、型どおりちゃんと頬髯もはやしている。そこで海軍上がりとまではわかる。ところが、あの男にはいくらか尊大なところがあって、なんだか命令的な態度が見える。あの男の頭の傾けかたと、短杖の振りかたには君もむろん気がついたろう? それから、見たところ堅実で、まじめな、中年の男だ――と、こういった材料を寄せ集めた結果、僕は兵曹あがりとにらんだのだ(コナン・ドイル『緋色の研究』33-36貢、新潮社、延原謙訳)

 

 中略前がワトソンによる地の文、中略後はホームズの台詞である。ホームズの観察の精密さ、ワトソンの観察の杜撰さがよく分かる一節だ。

 

 だが、われわれ読者はどうだろうか? もし『緋色の研究』にホームズが登場せず、ワトソンの叙述のみで全てが構成されていたとしたら? 引用した一節を、中略後の台詞を隠してもう一度読み直してほしい。われわれは、「往来の向こうがわを歩いている男」を、ワトソンの観察通りにただ「質素な服装のがっしりした男」としてイメージすることしかできない。あらゆる小説は語り手の「語り」によって初めて読者の前に立ち現れる。その語り手次第で対象が「見えたり見えなかったりする」ようでは、何も見えていないのと同じことだ。小説における「最も無能な」観察者は、われわれ読者に他ならないのだ。

 

 小説を読むことは、原理的に盲目的な行為だと言える。*2この事実を前景化した技法が、いわゆる「叙述トリック」だと考えることも出来るだろう。さておき、無能な観察者には見ることの適わないイメージ群を繋ぎ合わせ、つじつまの合う一つの物語へと再構成するホームズの推理方法は、そのまま小説の語り手と読者の関係へと重ねられる。つまり、全てのホームズ的な推理小説は、ある種のメタフィクションとして捉えることが可能なのだ。

 

 読者が何も見えていないということは、裏を返せば小説の登場人物は必ず何かを「見てしまって」いることになる。ポアロも、結局は視覚的なイメージを観察しているのだ。引用した『オリエント急行の殺人』にしたところで、彼は相手の容姿や仕草を見ることで性格や生い立ちを推理しているに過ぎない。おそらくクリスティーはアンチ・ホームズとして一連のポアロ物を書いていたように思うのだが、本質的にはホームズ的推理小説の重力圏から逃れられていない。(そんなことが可能なのか?)しかし、だからこそクリスティーの小説にたびたび登場する絵画的なモチーフの意味を考える必要があるだろう。『葬儀を終えて』は絵画を巡る犯罪の物語であり、『謎のクィン氏』に収録されている「死んだ道化役者」はまさしく絵画が推理の決め手となる。『5匹の子豚』では容疑者5人の手記をポアロが読むというメタフィクション的構成が取られ、さらにそれぞれの記憶を再構成する上で絵画が重要な役割を担う。もっと踏み込んだことが書けたら良いのだが、ここに何かありそう! というだけで現状何もアイディアがない……。

 

 未読のクリスティー作品には、まだまだたくさんの絵画や写真が登場するとにらんでいる。(教えてください)ともかく、彼女が残した小説の多くが、推理小説というジャンルあるいは小説そのものの性質に意識的な構造、叙述方法を選んでいることは確かだ。今読んでも面白く、古さを感じないのはそのためだと思う。『アクロイド殺し』や『葬儀を終えて』の「アンフェア」な地の文も、そのような観点から捉えなおす必要があるだろう。

*1:カルロ・ギンズブルグ『神話・寓意・徴候』では、人類史上のパラダイムという観点から推理小説の起源や意義についての考察が行われている。ホームズの推理方法が解剖学や絵画鑑定に起源を持つという話は面白いのだが、どれほど根拠のあることなのかは分からない。読書会ではどちらかというとこっちがメインになってしまった

 

*2:ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』は、まさにこの話をテーマにしたとても面白い小説である