このままお蔵入り(?)になってもしょうがないので、某所に載せていたやつを一部転載する。頓挫した企画にはそれだけである種のフェティシズムをくすぐられないだろうか。廃墟巡りに通じるものがあるのかもしれない。たとえばサンリオSF文庫を、海外SF小説を翻訳・紹介したいという夢と熱意の壮大な廃墟だと考えれば、あの文庫がいまだにマニアの間で高い人気を誇っている理由がすこし分かる気がする。さて、廃墟といえば黒沢清である。彼の映画のなかで、廃墟がいかに重要な役割を果たしてきたか、皆さんご存じだろう……といった具合に、連想ゲーム式に作品を数十作あげる試みを数か月前に1人でやっていた。意外に出てこないもので、けっこう苦労した覚えがある。しかしいざ思い浮かぶと、作品どうしをつなぐ自分でも意識していなかったネットワークが浮かび上がってきて楽しいのだ。
転載する過程で新たに連想された作品にも分岐しながら、飽きるまで書き連ねてゆく。媒体は小説でも漫画でも何でもよいことにした。ぼく自身他人の選書を見るのは割と好きだし、たとえ自己満足でも、1人でも多くの目に触れる機会を作った方がいつか良いことある気がするのでね……。(👈 弱気か!😹)
隕石が降ってくる。地面に穴が穿たれる。日常は学校と共に転覆する……。古典的なパニックSFのフォーマットを取りながらも、語り手たる「ぼく」の思考はクラスメイトの「久保田さん」の周りをぐるぐると旋回し続け、切り詰められた一人称の語りとして小説世界を立ち上げる。ジュブナイルSFの美しい大傑作であり、単行本版のみ収録の西村ツチカの挿絵が余りにも素晴らしい。
語り手に単なる「トリック」以上の役割が与えられている作品……ということで
2.『葬儀を終えて』アガサ・クリスティー
前に書いた記事でも言及している。『アクロイド殺し』以上にスキャンダラスな「語り」を持つ後期の傑作だが、話題に登ることが少ない。(気がする)葬儀を終えた瞬間に発せられた「彼は殺された」の一言をきっかけに、誰にも予想できない犯罪が始まる。絵画といったクリスティーの重要モチーフも数多く登場する。
佐藤哲也を紹介したのだから、当然もう一人にも触れたい……ということで
「小説の読みかた」徹底解説本。小説とは作者と読者による遊戯的な闘争である。書き手とは人格を持った「作者」のことではなく、文章から今まさしく立ち現れてくる〝存在〟のことである。言葉は決して「正確に」通じない――数々の作品例を挙げながら、おもしろく小説を読むための必須「戦略」を授けてくれる著者の手つきが実に鮮やか。
読者と作者による遊戯的な闘争の小説、とはまさしく……ということで
4.『カメラ・オブスクーラ』ナボコフ
絵画評論家の主人公は、鮮やかな〝色〟のモチーフにまみれながら少女マグダの魅力におぼれてゆく。最終的に視力すら失った彼が「手触りで」室内を歩き回り、カーテンやソファの「嘘の色」を教えられてからかわれ、間男が潜んでいることにすら「気が付かない」様はまさしく小説の読者の姿そのものである。タイトルもここに掛かってくる。読者を手玉に取り、みずからのコントロール下に置こうとするナボコフは、遊戯的な闘争の中で読者が真に立ち向かうべき大ボスと言えるかもしれない。
ナボコフの諸作品のように、あまたの「解釈」を生みだす作品と言えば……ということで
5.『デス博士の島その他の物語』ジーン・ウルフ
〝「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロも、獣人も」/「ほんと?」/「ほんとうだとも」彼は立ち上がり、きみの髪をもみくしゃにする。「君だってそうなんだ、タッキー。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみだって同じなんだよ」〟(「デス博士の島その他の物語」)
有名な一節を含む表題作も勿論すばらしいのだが、なんといっても白眉は「アメリカの七夜」だろう。発表から今まで「解釈」が幾重にも重ねられてきたこの「解釈をめぐる物語」は、小説を読むことの面白さを再確認させてくれる。ちなみに「眼閃の奇蹟」もまた、盲目の少年を主人公にすえた小説である。彼の「超能力」によって、文字通り視界が開けるような鮮烈な描写が展開されている。
超能力を有した盲目の登場人物……ということで
6.『ゴーレム¹⁰⁰』アルフレッド・ベスター
あの、読んでる途中の作品を入れてすみません……。しかし連想してしまったものは仕方がない。22世紀のアメリカ合衆国に位置する巨大都市「ガフ」では、水不足によって人々は体を洗うこともままならない。そのため、この都市では香水作りが主要な産業となっている……。この設定によって小説には〝におい〟のモチーフが頻出するのだが、それを踏まえた上で主要人物の一人に「生まれつき超能力を使っていたため、自らが盲目であることに気が付かなかった」という設定が与えられているのが面白い。「見えない」人間(大量殺戮をはたらくゴーレムも目に見えない)たちは〝におい〟によって接近する? だとすれば、何度も差し込まれるグラフィックにも、単なる作者の稚気以上の意味を見出せる気がする。
目に見えないもの……ということで
7.『魔法』クリストファー・プリースト
プリーストの中でも、その技巧が最も分かりやすい作品。爆弾テロによって記憶を失った主人公の前に、かつての恋人を名乗る女が現れる。彼女の手で過去のロマンスが明かされるかに見えて、物語は徐々に不穏な様相を帯びてゆく。やがて「真相」が見えたときの衝撃は他の何者にも代えがたい。
『魔法』からの連想でこの作品を出すと、どちらか一方の読者にはネタバレになるのかもしれないけど、両作品とも肝はそこ(だけ)じゃないと思ってるからあげちゃいまーす……ということで
8.『電氣人閒の虞』詠坂雄二
語ると現れる――という都市伝説「電気人間」を追いかけるルポライターの記録が、断章形式で綴られてゆく。小説全体に仕掛けられたものについて言及することはしないが、ここで行われていることもまた、たんなる「トリック」以上のものとして受け止められるべきだろう。実際『魔法』と合わせて読んでも面白いかもしれない。
目に見えないもの、都市伝説……ということで
9.『電脳コイル』
この作品もまた、視覚を巡る物語として見るべきだろう。「メガネ」をかけることで見えるようになる電脳空間、現実世界と電脳空間の間に穿たれた陥穽としての「古い空間」……。都市伝説や心霊写真のようなモチーフもそれに絡めて考えるべきかもしれない。電話が何度も登場するのも面白い。
電話がたくさん登場するアニメ……ということで
10.『新世紀エヴァンゲリオン』
いま読み返すと大したこと書いてないけど、エヴァについても以前ここで話をした。まあでも、間違ったことは書いていないのではないか。このテーマに沿ってエヴァを見てみる。この作品のなかで、電話(エヴァ搭乗者と指令室を繋ぐ回線も要するに電話だ)は基本的にディスコミュニケーションの装置として機能している。何度も登場するシンジのラジカセや、第9話「瞬間、心、重ねて」など、エヴァと「音」の関係は重要だと思うのだが、これ以上は何も思いついていない。第22話にて、ドイツ語を話すアスカに向けられた「知らない言葉で話してるとアスカが知らない人みたいだ」という台詞がよい。
知らない言葉で話す人……ということで
11.『オリエント急行の殺人』アガサ・クリスティー
説明不要の古典的傑作……とはいえ、いつ読んでもおもしろい。小説の「舞台」と「登場人物」、そして「犯罪」がこれ以上ない程密接に結びついていること、これらの関係を解き明かすポアロの(そしてクリスティーの)手つきが完璧に洗練されていること、それが『オリエント急行』最大の魅力と云える。列車にはどのような人間が集まるのか? その時起こる犯罪は何か? 〝知らない言葉で話す〟ベルギー人、エルキュール・ポアロは、「異邦人≒探偵」として何を見るのか。
探偵と異邦人……ということで
12.『第八の日』エラリー・クイーン
アヴラム・デイヴィッドスンによる代作らしい。エラリー・クイーンと異邦人……と言えばライツヴィルなわけだが、ここは敢えて『第八の日』を召喚する。「殺人が決して起きない村」に迷い込んだエラリーが解き明かすのは、果たして本当に殺人事件なのだろうか。極限状態の中で「事件を解決すること」の意味を問うた作品としては、一連のライツヴィルシリーズや『九尾の猫』にも接続可能な作品である。ラストシーンは圧巻。
クイーンのゴーストライターと言えば……ということで
13.『宇宙探偵マグナス・リドルフ』ジャック・ヴァンス
変幻自在の老探偵、マグナス・リドルフの活躍を集めた短編集。マグナスと同じく、収録された短編もミステリからSF、不条理ギャグまで様々なジャンルを変幻自在に横断してゆく。〈ジャック・ヴァンス・トレジャリー〉として、他に『スペース・オペラ』と『天界の眼:切れ者キューゲルの冒険』の2冊が刊行されているので、これが気に入ったら合わせて読んでみるとよいのでは。
おや、このカバーイラストは……ということで
14.『それでも町は廻っている』石黒正数
一番好きな漫画である。この作品について語る時はいつも個人的な話ばかりしてしまう。最終巻を誰よりも早く買うために神保町の書泉グランデを訪れたあの日を今でも昨日のことのように思い出すのだが、4年以上も前らしい。おそろしい。今も昔も本当に絵が上手い人だと思うが、個人的にはそれ町10巻前後の頃の絵が一番好きだ。作中でオマージュが捧げられているように、それ町のキャラクターを構成する1本の細い線は大友克洋のそれに近い。こういう絵は見てるだけでキモチよくなれる。
線がキモチいい漫画……ということで
一番「線」がキモチいいのは、『AKIRA』でも『童夢』でもなくこの作品である。大友克洋が丸ペンのみで漫画を描くことは有名だが、『気分はもう戦争』ではペン先がケント紙をガリガリ削る音すら聞こえてきそうだ。また、これほどまでに多種多様なパロディと引用で溢れかった漫画もそう無いのではないか。正直いまだに元ネタが把握できていない箇所がたくさんある。そういう意味でも、流し読みを許さない漫画と呼ぶことが出来るだろう。(?)
流し読みを許さない漫画……ということで
相棒のシボも含めて、登場人物の体格は階層ごとに伸縮を繰り返す。しかし背景の巨大さと主人公の霧亥には変化がないため、読み進めていくうちにだんだん遠近感が狂ってきて面白い。緻密な描き込みも視線を散逸させる。意図的かは分からないが、流し読み出来ないような仕掛けがあちこちに散りばめられた、読みづらいことがむしろ快感になりうる作品。
『BLAME!』に強い影響を受けたと思われる作品……ということで
17.『JUNK HEAD』
現在公開中のストップモーション・アニメ。「巨大な竪穴」を上下するという舞台設定と構成、キャラクターの造形など明らかに『BLAME!』の影響下にあるのが分かる。盛り上がりでとりあえずスローを入れるのはやめてほしいが、トータルとしては面白い作品。3部作らしい。
もうひとつ、弐瓶勉からの連想……ということで
作中に登場する「チェンソーマン」のイメージが弐瓶勉『アバラ』からの引用であることは割と知られている……のかな。
マンガやアニメにおいて、キャラクターの感情や性質を表す記号として「瞳」がしばしば用いられることは経験的に誰もが理解している。たとえば、ハイライトのない瞳は「絶望」や「悪」を表し、開いた瞳孔が描き込まれた瞳は「驚き」や「狂暴さ」を表す……といったように。もちろん、瞳の意味に普遍的な定義がある訳ではない。瞳は、あくまでも個別の作品のなかで、キャラクターデザインや物語の展開に合わせて相対的な意味を与えられている。当たり前と言えば当たり前すぎるこの事実を確認するための1つの例が、藤本タツキ『チェンソーマン』だ。この作品に登場するキャラクターの瞳は基本的に簡潔な円と点のみで構成されており、いかなる状況においても決して変化を被らない。ゆえに、瞳孔が開いているように見えるからといって彼は驚いている訳ではないし、「グルグル目」だからといって彼女が混乱している訳ではない、と『チェンソーマン』の読者は考える。ここでは、瞳はただ「目である」ことを表し、それ以外の意味を徹底的に剥奪されているのだ。
まあ結局「そらそうよ」という話でしかないのだが、明確なセオリーが存在しているように思える「瞳の表現」は、作者ごとにかなり変奏されている印象がある。(これも当たり前なのだが)しかし改めて「瞳の表現」に注意して読むと、色々と面白い発見がある。たとえば、「写実的」な漫画家の代表格とされる大友克洋の『AKIRA』では、登場人物が超能力を使う際に瞳にスクリーントーンが貼られるという「記号的」かつオーソドックスな方法が取られている。そもそも記号的でない漫画などあり得ないとは言え、これは個人的にすこし面白かった。超能力少年を巡る『AKIRA』は、すなわち視線劇の漫画として構成されていると言えるだろう。
漫画ばっかりになってきた。視線劇の作品……ということで
19.『許されざる者』
キャメラを用いて何かを映す以上、すべての映画は一種の視線劇にしかならない。中でもとりわけ、「敵を狙った視線」をそのまま弾丸がなぞる西部劇は、視線劇としての映画のありようを前景化したジャンルだと言えよう。引退したガンマンの瞳は何を見るのか。終盤、荒野の向こうを見つめるイーストウッドの顔、というか瞳がすごい。あれだけはいつまでも覚えている。
疲れてきた。引退と復活……ということで
20.『九尾の猫』エラリー・クイーン
『十日間の不思議』で最大の挫折を味わったエラリーが復活するためだけの「物語」ではないと思う。それでは結局何も変わらない。探偵が推理することは、小説家が物語を作り上げることと重なるのだから。
となれば、この作者のこの作品を再読する必要がある……ということで
21.『ふたたび赤い悪夢』法月綸太郎
限界っぽいのでこの辺にしておく。21作品……そんなに伸びなかった。要素還元的な本当の連想ゲームにならないようにすると、やっぱり難しい。皆さんも暇なときにやってみてください。