しまってないしなってない

押井守と博物館

 新型コロナウイルスに感染してしまう。幸い現時点では重症化の兆しはないとはいえ熱と咳と喉の痛みと鼻水と頭痛がずっと続いていてつらい。味覚もない。トイレと風呂以外1歩も部屋から出ない生活のなかで、家族に助けられていること、今の職場はやっぱり少々異常であることのふたつを完全に理解する。完全に理解したからといって何がどうなる訳でもないのだが、実家に居させてもらえてるうちにさっさと転職したほうがよいだろう。

 

 トイレと風呂以外1歩も部屋から出ない生活のなかで、博物館について考える。正確にいえば、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』『人狼 JIN-ROH』『ルパン三世 PART6』に登場する博物館について。誰もが覚えているに違いない『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の博物館での戦闘シーンはさておくとして、『人狼 JIN-ROH』にも博物館が2回、重要な「待ち合わせ場所」として登場していたことを思い出さなくてはならない。そして、つい昨年放送されたばかりの『ルパン三世 PART6』第10話「ダーウィンの鳥」もまた、大英博物館に所蔵された始祖鳥の化石をめぐる物語であった。監督あるいは脚本として押井守が関わっているこれら3つの作品に共通する博物館のモチーフは、「死んだものを大衆に展示する場所」と言い換えることができる。

 〝死んで〟いて、かつ大衆の前に〝展示〟されるもの……といえば、ああ映画のことじゃないか、と少し気の利いた人なら気がつくだろう。SF短篇『ラ・ジュテ』(博物館のショットの不気味さ)、あるいは『ナイト ミュージアム』(化石が〝生きて〟いる!)と、古今東西の博物館映画を集めればそれだけで一つの文章が書けそうだけど、ひとまず『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』に戻ろう。もはや古典的に映るほど「見る/見られる」の主題が反復されるこの映画のクライマックスが博物館を舞台にしている時点で我々は何か示唆的なものを感じずにはいられないのだが、自己言及しているからすばらしいといった金太郎飴的な解釈に陥ることを避けるためにも、ここでは、例の「光学迷彩」に注目する。作中必ず「逃亡」の手段として用いられるこの光学迷彩は、同時に文字通り(視覚通り?)「画面から逃亡」する装置でもある。つまり、『攻殻機動隊』冒頭で公安6課中村部長が取り逃したのは、暗殺の実行犯・草薙素子の文字通りの身体、草薙素子のイメージそのものに他ならないのだ。見えていたはずのものが見えなくなること。これが、『攻殻機動隊』『人狼』「ダーウィンの鳥」をつなぐもうひとつのテーマになる。

 

ラ・ジュテ

ナイト ミュージアム

GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊

 『人狼』はスパイの物語だといってよい。治安組織「特機隊」に所属する主人公、伏一貴の前に現れた女は、かつて彼の目の前で自爆した過激派勢力の少女の姉を名乗る。彼女と伏のロマンスが『人狼』のプロットを動かす動力となるのだが、物語も半分以上が過ぎたところで、じつは彼女が少女とは何の関係もない公安のスパイであることが明らかにされる。この筋書きを描き、特機隊を潰そうと画策した人物こそ、公安の機密情報を提供する協力者として伏に近づいてきた、旧友・辺見敦であった。スパイとしての「裏の顔」を持つ彼らが、伏との待ち合わせ場所として決まって選ぶ場所、それが博物館なのだが、その前に思い出さなくてはいけないことが一つある。そもそも『人狼』における最大の「(アンチ)スパイ」とは伏一貴その人ではなかったか。

 

「あれが本当の彼の姿だ。我々は犬の皮を被った人間じゃない。人の皮を被った狼なのさ」(『人狼 JIN-ROH』)

 

 公安による一連の策謀は、すべて特機隊の掌の上の出来事に過ぎなかった。伏こそが特機隊に潜んでいると噂される都市伝説的な存在「人狼」だと明かされ、特殊装甲を身にまとった彼がまるで獣のように公安の局員を、辺見敦を殺戮してゆき、最後にはヒロインたるスパイの女すらも射殺する。伏もまた、状況を裏側から操る「スパイの顔」の持ち主だったのだ――と本当に言えるだろうか? むしろ、外骨格のように全身を覆いつくす特機隊の装備は、徹底的に「表面」でしかない。これまで多少なりとも「人間らしく」、内面の葛藤を持つような人物として描かれてきた伏の存在は、彼が装備に身を包んだ瞬間まったく〝見えなく〟なり、そこに〝見える〟のは「表面」だけを持つ「獣」である。かくして「表の顔」と「裏の顔」を操るスパイたちの物語は、表面しか持たないアンチ・スパイ「人狼」によって幕を引かれることとなる。

 

人狼 JIN-ROH

 あるいは「ダーウィンの鳥」の場合。大英博物館で始祖鳥の化石を見つめる峰不二子のショットから物語は始まる。外で彼女を待つのはミハイルと名乗る謎の人物であり、彼によれば博物館に展示されている始祖鳥は捏造であるという。それでもなお、美しい化石を盗み出してきてほしいとの彼の依頼を受けて、不二子はルパンと共に大英博物館へと侵入する。しかしどうやら、このルパンはミハイルの変装であるらしい。彼に導かれて不二子が博物館の最奥で発見するのは、巨大な堕天使の化石である。いったいなぜこんなものが……? 恐怖する彼女――とここで、突然画面は冒頭の不二子のショットへと回帰する。彼女は博物館を出るとミハイルの車に乗り込み、「不信心な泥棒には神様の依頼は重すぎる」と依頼を断り、彼の本当の名前が「ミカエル」であると喝破する。(このあたり、彼のキャラデザが『デビルマン』の飛鳥了にそっくりな所とつなげられるかもしれない)こうして、真贋をめぐる物語の「真贋」それ自体を宙づりにしながら、「ダーウィンの鳥」はエンディングをむかえるだろう。

 変装のモチーフがそのまま、見えていたはずものが見えなくなるテーマへと接続できる。そもそもアニメーションにおいて、誰かが変装したルパンと本物のルパンの間に本質的に何の違いもありはしないのだ。ルパンがルパンであると、キャラクターがキャラクターであると同定する手段は、ひとえにそのキャラクターを構成する記号にかかっている。その記号の「真贋」が一度揺るがされてしまえば、『人狼』の伏一貴から「内面」を見失ったときと同様、見えていたはずのキャラクターが〝見えなく〟なる。

 

ルパン三世 PART6』第10話「ダーウィンの鳥」

 イメージはつねに取り逃される。少々安易な図式化を許してもらえるなら、イメージが〝パッキング〟される場所としての博物館を、ここに対置させることもできる。だが『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』のラストシーン、人形遣いと融合し、物語的なレベルにおいても「身体のイメージ」から逃れるかにみえた草薙素子(便宜的にこう呼ぶ)が、結局のところバトーが調達してきた少女の義体のなかに〝パッキング〟されてしまったことも銘記しておかなくてはならない。続編『イノセンス』でも再演されるこの退行こそ、押井のアニメーションがいだく葛藤に他ならないとすれば。

 

 身体から逃れようとしても逃れられない、つまり「GHOST IN THE SHELL」であること。押井守を見ることは、この緊張関係を意識することである。