しまってないしなってない

架空線を引く

私は、いわゆる「美しいデザイン」にあまり興味がありません。デザインであれ、文章であれ、私に必要なのは理想の美学でなく、現実の論理と倫理です。表現でなく、手法でもなく、必然です。

澤直哉『架空線』(港の人)

 

改装を終えた紀伊國屋新宿本店2階の、より洗練と脱臭が進んだ文学の棚の上段の隅に差し込まれていたその本は、あまりにも「物質」だった。薄い。そして、白い。背には、題名と著者名と版元のいずれもが自らの優位を主張することなく均等に並んでいる。棚から本を抜き取ろうとすると、包装紙のようにつるつるとした質感が手の平を通して伝わってくる。ひんやりとこちらを遮断するコート紙とは違って、手垢と体温が染み込んでいくかに思える文字通り「薄い」紙でつくられたカバーの表には、想像通り題名と著者名と版元が均等に、正方形を描くようにして並んでいた。ここには何の情報もない。何について書かれた本なのか、著者は一体何者なのか、版元は他にどんな本を出版しているのか、カバーのそでは真っ白でなにも書かれていない。当然、帯など付いていない。おそらくこの本は紀伊國屋新宿本店を訪れた誰の目も惹かないだろう。

つまり、この『架空線』は「目を惹く」ことへの疑義から始まっているのである。毎年7万点ちかくが刊行されるなかで1冊の本が生き残るためには当然、装丁から勝負する必要がある。しかし、題名や著者名を斬新かつ適切に配置し、フォントや用紙にこだわり、センセーショナルな帯を用意するその当たり前の作業を通して、本という媒体がいつの間にか透明になり、情報やイメージの集合体だけが後に残されていやしないか。本とは、言葉とは、なによりもまずそのような形をとって生まれ(てしまっ)た「物質」であることが忘れられているのではないか。講義録「本をめぐる/こころの/ことばの/形にふれる」で繰り返される警句は、何もブックデザイナーだけに向けられたものではない。

 

じつのところ今日の私たちは、ほとんど常に「タイポグラフィの領域」のなかにいるわけです。スマートフォンを与えられた時点で、私たちはある特定のデザインを、形を使わされている。そこに裸の言葉なんてものはありません。文字は必ず、特定の書体の形で現れます。〔…〕私たちの言葉はあるフォーマットのなかに導き入れられ、デザインされている。

 

「書くこと」と「文字を選び、並べること」が明確に別れていた活版印刷の時代から遠く離れて、今や書くことはほとんどそのまま文字を選ぶことであり、並べることである。そして多くの場合、それは無自覚のうちに行われている。SNSや文章作成ソフトがユーザーに与える自由など錯覚に過ぎず、用意されているのは不自由な既製品の言葉でしかない。そもそも、元来言葉とは既製品でしかありえないという自覚が、果たして貴方がたにあるか。「物質」――絶対的な他者――への意識を欠いた無邪気な自己表現に、一体どれほどの意味があるのか。無自覚の「つくり手」たる我々に、著者は警告する。

 

そこで私が最近考えたのは、死のためのデザイン、というものです。死ほど人間に対して平等な、即物的な不都合があるでしょうか。〔…〕それは、やがて死ぬという究極の現実から目を逸らすために、死をおしゃれに飾ること、すなわち死のデザインとは違います。そんなものは、金持ちがカタログから高価な服やアクセサリーを選ぶのと、さして変わらない。そうではなく、死という選択の余地のなさの平等を、人々がしずかに受け入れてゆくためのデザインです。

 

みずからの物質性と向き合うような、切り詰められたブックデザインが「美しい」のではない。生きることそれ自体がみずからの物質性と向き合うこと――つまり、死に向かうこと――である以上、必然的に、書くこと、つくることも同様でなくてはならない。それが著者の論理であり、倫理である。

 

こんな墓みたいな本が作れないかということを、私はついつい考えます。ありあわせのもので作られた、大体どれもおなじで、しかしそれぞれが生者たちに慈しまれるデザイン、とでもいいましょうか。〔…〕大切なのは、個別の形を、その人の似姿を形にしたものを愛でることよりも、その形が永遠に失われてもなお、生者がそれを慈しむことができるかどうかなのではないでしょうか。

 

無限に拡がるかに思える世界を、縁を持った一定の領域として切り取り、そこに言葉を配置してゆくこと。思考することが既に「架空の本」をつくることに近いと指摘されたとき、この本が持つ射程は果てしないものとなる。貴方がたも、私も、つくることと無縁ではいられない。誰も死から逃れることができないように。

 

書くことは私にとって、死ぬことの練習にほかなりません。生前の遺稿、毎月の訃報――これが私の書き方であり、生き方であり、死に方でもある、ということになりましょうか。

 

就職して(あまり「社会に出る」という表現は使いたくない)初めて、自分が死ぬことを理解した僕は、自分のために生きることをようやく、少しずつ覚えつつある。読むこと/見ることを、コレクションでもなく、フェティッシュでもなく、現実としての人生に繋げる――ひどく抽象的なこの問題と向き合うための補助線を、『架空線』は引いてくれたように思う。

年が明けてすぐに亡くなった祖父の遺体は、不自然に潰れた鼻の穴が「死体」であることを明確に主張しており、眠っているようだという散文的なイメージからはかけ離れていた。かつて自殺した友人は、伊藤計劃『ハーモニー』を腕に抱えながらやはり眠るように死んでいたという。だがそれは(もしかすると、彼自身によって仕組まれた)物語に過ぎない。僕はそれを享受するのではなく、引き受けなくてらならない。死者の記憶を愛でるのではなく、死者の声を聞かなくてはならない。「架空線」すなわち本は、彼岸と此岸の間にも架けられている。