架空線を引く
私は、いわゆる「美しいデザイン」にあまり興味がありません。デザインであれ、文章であれ、私に必要なのは理想の美学でなく、現実の論理と倫理です。表現でなく、手法でもなく、必然です。
澤直哉『架空線』(港の人)
改装を終えた紀伊國屋新宿本店2階の、より洗練と脱臭が進んだ文学の棚の上段の隅に差し込まれていたその本は、あまりにも「物質」だった。薄い。そして、白い。背には、題名と著者名と版元のいずれもが自らの優位を主張することなく均等に並んでいる。棚から本を抜き取ろうとすると、包装紙のようにつるつるとした質感が手の平を通して伝わってくる。ひんやりとこちらを遮断するコート紙とは違って、手垢と体温が染み込んでいくかに思える文字通り「薄い」紙でつくられたカバーの表には、想像通り題名と著者名と版元が均等に、正方形を描くようにして並んでいた。ここには何の情報もない。何について書かれた本なのか、著者は一体何者なのか、版元は他にどんな本を出版しているのか、カバーのそでは真っ白でなにも書かれていない。当然、帯など付いていない。おそらくこの本は紀伊國屋新宿本店を訪れた誰の目も惹かないだろう。
つまり、この『架空線』は「目を惹く」ことへの疑義から始まっているのである。毎年7万点ちかくが刊行されるなかで1冊の本が生き残るためには当然、装丁から勝負する必要がある。しかし、題名や著者名を斬新かつ適切に配置し、フォントや用紙にこだわり、センセーショナルな帯を用意するその当たり前の作業を通して、本という媒体がいつの間にか透明になり、情報やイメージの集合体だけが後に残されていやしないか。本とは、言葉とは、なによりもまずそのような形をとって生まれ(てしまっ)た「物質」であることが忘れられているのではないか。講義録「本をめぐる/こころの/ことばの/形にふれる」で繰り返される警句は、何もブックデザイナーだけに向けられたものではない。
じつのところ今日の私たちは、ほとんど常に「タイポグラフィの領域」のなかにいるわけです。スマートフォンを与えられた時点で、私たちはある特定のデザインを、形を使わされている。そこに裸の言葉なんてものはありません。文字は必ず、特定の書体の形で現れます。〔…〕私たちの言葉はあるフォーマットのなかに導き入れられ、デザインされている。
「書くこと」と「文字を選び、並べること」が明確に別れていた活版印刷の時代から遠く離れて、今や書くことはほとんどそのまま文字を選ぶことであり、並べることである。そして多くの場合、それは無自覚のうちに行われている。SNSや文章作成ソフトがユーザーに与える自由など錯覚に過ぎず、用意されているのは不自由な既製品の言葉でしかない。そもそも、元来言葉とは既製品でしかありえないという自覚が、果たして貴方がたにあるか。「物質」――絶対的な他者――への意識を欠いた無邪気な自己表現に、一体どれほどの意味があるのか。無自覚の「つくり手」たる我々に、著者は警告する。
そこで私が最近考えたのは、死のためのデザイン、というものです。死ほど人間に対して平等な、即物的な不都合があるでしょうか。〔…〕それは、やがて死ぬという究極の現実から目を逸らすために、死をおしゃれに飾ること、すなわち死のデザインとは違います。そんなものは、金持ちがカタログから高価な服やアクセサリーを選ぶのと、さして変わらない。そうではなく、死という選択の余地のなさの平等を、人々がしずかに受け入れてゆくためのデザインです。
みずからの物質性と向き合うような、切り詰められたブックデザインが「美しい」のではない。生きることそれ自体がみずからの物質性と向き合うこと――つまり、死に向かうこと――である以上、必然的に、書くこと、つくることも同様でなくてはならない。それが著者の論理であり、倫理である。
こんな墓みたいな本が作れないかということを、私はついつい考えます。ありあわせのもので作られた、大体どれもおなじで、しかしそれぞれが生者たちに慈しまれるデザイン、とでもいいましょうか。〔…〕大切なのは、個別の形を、その人の似姿を形にしたものを愛でることよりも、その形が永遠に失われてもなお、生者がそれを慈しむことができるかどうかなのではないでしょうか。
無限に拡がるかに思える世界を、縁を持った一定の領域として切り取り、そこに言葉を配置してゆくこと。思考することが既に「架空の本」をつくることに近いと指摘されたとき、この本が持つ射程は果てしないものとなる。貴方がたも、私も、つくることと無縁ではいられない。誰も死から逃れることができないように。
書くことは私にとって、死ぬことの練習にほかなりません。生前の遺稿、毎月の訃報――これが私の書き方であり、生き方であり、死に方でもある、ということになりましょうか。
就職して(あまり「社会に出る」という表現は使いたくない)初めて、自分が死ぬことを理解した僕は、自分のために生きることをようやく、少しずつ覚えつつある。読むこと/見ることを、コレクションでもなく、フェティッシュでもなく、現実としての人生に繋げる――ひどく抽象的なこの問題と向き合うための補助線を、『架空線』は引いてくれたように思う。
年が明けてすぐに亡くなった祖父の遺体は、不自然に潰れた鼻の穴が「死体」であることを明確に主張しており、眠っているようだという散文的なイメージからはかけ離れていた。かつて自殺した友人は、伊藤計劃『ハーモニー』を腕に抱えながらやはり眠るように死んでいたという。だがそれは(もしかすると、彼自身によって仕組まれた)物語に過ぎない。僕はそれを享受するのではなく、引き受けなくてらならない。死者の記憶を愛でるのではなく、死者の声を聞かなくてはならない。「架空線」すなわち本は、彼岸と此岸の間にも架けられている。
2022年の竹本泉ベスト(と、読んでよかった本など)
発表します。
5位『よみきり❤もの』10巻
9巻まで読んだ状態でなぜか放置していたシリーズの最終巻は、個人的には3巻とならぶ当たり巻だった。「うてばひびくのはともかく」の主人公、葛飾ふじ美は要するに虚言癖の持ち主で、このシリーズ全体の(というか、竹本泉の?)コンセプトである「変」な女の子(耳かきが大好き、めちゃくちゃ目付きが悪い、ものすごくボーッとしている、etc...)のなかでも群を抜いて生々しい設定なのだが、これがとてもかわいい。
4位『むきもの67%』
意味がわからないタイトルだけど、最後まで読めば謎が解けるようになっている(?) いい話、泣ける。
3位『しましま曜日』
着る服によって性格が360度変化する少女、宮崎ゆかりの話。そんな彼女には内面がないのでは? となる回でかなりドキッとする。
2位『あんみつ姫』
倉金章介の漫画をリメイクしたやつ。時代考証一切なしのとぼけたセリフが笑える。絶対に腹話術で会話するいちご大福姫の設定が宮崎ゆかりと同様かなり竹本泉っぽいモチーフ。面倒くさくなったのかすぐに廃棄されているところまで含めて竹本泉っぽい。
1位『てきぱきワーキン❤ラブ』
この時期の竹本泉が一番画力に脂が乗っているんじゃないか。個人的にはアップルパラダイスと双璧をなすベストワークだと思う。よく見ると相当きわどい寝間着姿の登場人物が全然性的に見えないところ、(タイトル含めて)ディストピアっぽい世界なのにそんなふうに見えないところがすごい。
次は読んでよかった本、マンガ、観てよかった映画。全てにおいて数が減少しているが、もうしょうがない。出会いはそれなりにたくさんあった気がする。
読んでよかった本
『近代文化史入門』『殺す・集める・読む――推理小説特殊講義』高山宏
『鏡と皮膚』谷川渥
『時間と自己』木村敏
『火星人にさよなら』鈴木雅雄
『反=日本語論』蓮實重彦
『饗宴』プラトン
『鏡の影』佐藤亜紀
『怪談小説という名の小説怪談』澤村伊智
『ある詩人への挽歌』マイケル・イネス
『詐欺師の楽園』ヴォルフガング・ヒルデスハイマー
読んでよかったマンガ
竹本泉作品
『ミルククローゼット』富沢ひとし
『これ描いて死ね』とよ田みのる
『峠鬼』鶴淵けんじ
『ゆうやけトリップ』ともひ
『イマジナリー』幾花にいろ
『HERE』リチャード・マグワイア
観てよかった映画
『奇跡』カール・テオドア・ドライヤー
『ポーラX』レオス・カラックス
『右側に気をつけろ』ジャン・リュック・ゴダール
『夏物語』エリック・ロメール
『やさしい女』ロベール・ブレッソン
『NOPE』ジョーダン・ピール
『フラワーズ・オブ・シャンハイ』侯孝賢
『EUREKA』青山真治
『PASSION』濱口竜介
『THE FIRST SLAMDUNK』井上雄彦
2022年をまとめようとすると暗いことばかりになりそうだからやめておきます。まあ、それなりに楽しくやっていたような気もするけど!
押井守と博物館
新型コロナウイルスに感染してしまう。幸い現時点では重症化の兆しはないとはいえ熱と咳と喉の痛みと鼻水と頭痛がずっと続いていてつらい。味覚もない。トイレと風呂以外1歩も部屋から出ない生活のなかで、家族に助けられていること、今の職場はやっぱり少々異常であることのふたつを完全に理解する。完全に理解したからといって何がどうなる訳でもないのだが、実家に居させてもらえてるうちにさっさと転職したほうがよいだろう。
トイレと風呂以外1歩も部屋から出ない生活のなかで、博物館について考える。正確にいえば、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』『人狼 JIN-ROH』『ルパン三世 PART6』に登場する博物館について。誰もが覚えているに違いない『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の博物館での戦闘シーンはさておくとして、『人狼 JIN-ROH』にも博物館が2回、重要な「待ち合わせ場所」として登場していたことを思い出さなくてはならない。そして、つい昨年放送されたばかりの『ルパン三世 PART6』第10話「ダーウィンの鳥」もまた、大英博物館に所蔵された始祖鳥の化石をめぐる物語であった。監督あるいは脚本として押井守が関わっているこれら3つの作品に共通する博物館のモチーフは、「死んだものを大衆に展示する場所」と言い換えることができる。
〝死んで〟いて、かつ大衆の前に〝展示〟されるもの……といえば、ああ映画のことじゃないか、と少し気の利いた人なら気がつくだろう。SF短篇『ラ・ジュテ』(博物館のショットの不気味さ)、あるいは『ナイト ミュージアム』(化石が〝生きて〟いる!)と、古今東西の博物館映画を集めればそれだけで一つの文章が書けそうだけど、ひとまず『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』に戻ろう。もはや古典的に映るほど「見る/見られる」の主題が反復されるこの映画のクライマックスが博物館を舞台にしている時点で我々は何か示唆的なものを感じずにはいられないのだが、自己言及しているからすばらしいといった金太郎飴的な解釈に陥ることを避けるためにも、ここでは、例の「光学迷彩」に注目する。作中必ず「逃亡」の手段として用いられるこの光学迷彩は、同時に文字通り(視覚通り?)「画面から逃亡」する装置でもある。つまり、『攻殻機動隊』冒頭で公安6課中村部長が取り逃したのは、暗殺の実行犯・草薙素子の文字通りの身体、草薙素子のイメージそのものに他ならないのだ。見えていたはずのものが見えなくなること。これが、『攻殻機動隊』『人狼』「ダーウィンの鳥」をつなぐもうひとつのテーマになる。
『人狼』はスパイの物語だといってよい。治安組織「特機隊」に所属する主人公、伏一貴の前に現れた女は、かつて彼の目の前で自爆した過激派勢力の少女の姉を名乗る。彼女と伏のロマンスが『人狼』のプロットを動かす動力となるのだが、物語も半分以上が過ぎたところで、じつは彼女が少女とは何の関係もない公安のスパイであることが明らかにされる。この筋書きを描き、特機隊を潰そうと画策した人物こそ、公安の機密情報を提供する協力者として伏に近づいてきた、旧友・辺見敦であった。スパイとしての「裏の顔」を持つ彼らが、伏との待ち合わせ場所として決まって選ぶ場所、それが博物館なのだが、その前に思い出さなくてはいけないことが一つある。そもそも『人狼』における最大の「(アンチ)スパイ」とは伏一貴その人ではなかったか。
「あれが本当の彼の姿だ。我々は犬の皮を被った人間じゃない。人の皮を被った狼なのさ」(『人狼 JIN-ROH』)
公安による一連の策謀は、すべて特機隊の掌の上の出来事に過ぎなかった。伏こそが特機隊に潜んでいると噂される都市伝説的な存在「人狼」だと明かされ、特殊装甲を身にまとった彼がまるで獣のように公安の局員を、辺見敦を殺戮してゆき、最後にはヒロインたるスパイの女すらも射殺する。伏もまた、状況を裏側から操る「スパイの顔」の持ち主だったのだ――と本当に言えるだろうか? むしろ、外骨格のように全身を覆いつくす特機隊の装備は、徹底的に「表面」でしかない。これまで多少なりとも「人間らしく」、内面の葛藤を持つような人物として描かれてきた伏の存在は、彼が装備に身を包んだ瞬間まったく〝見えなく〟なり、そこに〝見える〟のは「表面」だけを持つ「獣」である。かくして「表の顔」と「裏の顔」を操るスパイたちの物語は、表面しか持たないアンチ・スパイ「人狼」によって幕を引かれることとなる。
あるいは「ダーウィンの鳥」の場合。大英博物館で始祖鳥の化石を見つめる峰不二子のショットから物語は始まる。外で彼女を待つのはミハイルと名乗る謎の人物であり、彼によれば博物館に展示されている始祖鳥は捏造であるという。それでもなお、美しい化石を盗み出してきてほしいとの彼の依頼を受けて、不二子はルパンと共に大英博物館へと侵入する。しかしどうやら、このルパンはミハイルの変装であるらしい。彼に導かれて不二子が博物館の最奥で発見するのは、巨大な堕天使の化石である。いったいなぜこんなものが……? 恐怖する彼女――とここで、突然画面は冒頭の不二子のショットへと回帰する。彼女は博物館を出るとミハイルの車に乗り込み、「不信心な泥棒には神様の依頼は重すぎる」と依頼を断り、彼の本当の名前が「ミカエル」であると喝破する。(このあたり、彼のキャラデザが『デビルマン』の飛鳥了にそっくりな所とつなげられるかもしれない)こうして、真贋をめぐる物語の「真贋」それ自体を宙づりにしながら、「ダーウィンの鳥」はエンディングをむかえるだろう。
変装のモチーフがそのまま、見えていたはずものが見えなくなるテーマへと接続できる。そもそもアニメーションにおいて、誰かが変装したルパンと本物のルパンの間に本質的に何の違いもありはしないのだ。ルパンがルパンであると、キャラクターがキャラクターであると同定する手段は、ひとえにそのキャラクターを構成する記号にかかっている。その記号の「真贋」が一度揺るがされてしまえば、『人狼』の伏一貴から「内面」を見失ったときと同様、見えていたはずのキャラクターが〝見えなく〟なる。
イメージはつねに取り逃される。少々安易な図式化を許してもらえるなら、イメージが〝パッキング〟される場所としての博物館を、ここに対置させることもできる。だが『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』のラストシーン、人形遣いと融合し、物語的なレベルにおいても「身体のイメージ」から逃れるかにみえた草薙素子(便宜的にこう呼ぶ)が、結局のところバトーが調達してきた少女の義体のなかに〝パッキング〟されてしまったことも銘記しておかなくてはならない。続編『イノセンス』でも再演されるこの退行こそ、押井のアニメーションがいだく葛藤に他ならないとすれば。
身体から逃れようとしても逃れられない、つまり「GHOST IN THE SHELL」であること。押井守を見ることは、この緊張関係を意識することである。
2021年に読んだ本とマンガ(とミステリ研)の話
もにゃもにゃしていたら年が明けてしまった。初夢は交通事故を起こす夢(免許持ってないのに)で、かなりげっそりした。
僕は大学でミステリ研究会とかいうやつに所属していて、2021年はその最終年、ミス研4年生の年であった。(多くのサークルと同様、ここでは入会した年度を1年目として数えている)2021年をまとめると同時に4年弱にわたる憧れのミス研生活を総括してみようかと思ったけれど、コロナ禍以降の2年間で事実上の幽霊会員と化してからはサークルに関する記憶がほとんどなく、ではそれ以前の2年はどうかと記憶を掘り返してみても、あらゆる文芸サークルの根幹とも言える営為、すなわち創作と評論は会誌の穴埋め的な代物を除くと1文字も書いておらず、ちまちまと開催していた読書会の内容は今思えば赤面もので、では他に何をしていたのかと言えばそれは「人関」(人間と関わること)に他ならず、まったりとしていて味わい深く、うんざりするくらい紋切り型で、真似できないほど湿っぽいこの人関からは本当に沢山ものを学ばさせていただき、人間として大きく成長するきっかけを与えてもらったと考えております。まあ要するに、4年弱にわたるサークル生活で実のあることは特に何もしなかったらしい。
と、まとめると悲しすぎるので、それでも結構楽しかったと付け加えておく。色々と思うところも多々(本当に多々!)あったけど、あまり無責任なことを書き散らすのもよくないし、現に何もしなかった僕自身にも責任の一端はある。まあ、こんなもんだよね……って感じ。←こうやってバランスとって誰も傷つけないようにする「人関」はマジで不毛なのでやめたほうがいい。どう考えてもお前らが悪い。以上!
2021年に読んだ小説ベスト(順不同)
・『江神二郎の洞察』有栖川有栖
・『妻の帝国』佐藤哲也
・『その言葉を/暴力の舟/三つ目の鯰』奥泉光
・『十日間の不思議』エラリイ・クイーン
・『見えないグリーン』ジョン・スラデック
・『白昼の悪魔』アガサ・クリスティー
・『ゴーレム100』アルフレッド・ベスター
・『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』ナボコフ
2021年刊行の作品をおそらく1冊も読んでいない状態で作られたリスト*1であるうえ、ベスターとスラデックくらいしか初めて読んだ作家がいないとはどういうことだろう。小説への興味がすっかり枯れているように見えて悲しいけど半分くらいは事実なのだから仕方ない。もちろん理由は飽きたからでも極めたからでもなく、一番の興味の対象が他にあったからなのだが、それにしたってもう少し頑張って色々読むべきだった。少ない読書量のなかで選んだ作品を眺めてみると、小説に描かれる「視覚」に惹かれているように思える。女子高生アイドルたちが覇権を争う街を舞台にした『メロディ・リリック・アイドルマジック』の語り手は共感覚の持ち主――彼には「音楽の幻」が見える――であり、アイドルとステージと視覚のモチーフから必然的に導かれるひとつのテーマ、すなわち「見つめる」こと(それはそのまま「小説を書く」ことにもつながっているような気がする)を、石川博品のあの文体で書かれるとなんだか少し泣けてくる。曜日から色を感じ取る涼宮ハルヒもまたある種の共感覚の持ち主と言え、シリーズ最新作『涼宮ハルヒの直観』では、メタ的なハルヒの「直観」をもとに展開される中篇「鶴屋さんの挑戦」が面白い。『見えないグリーン』は色彩あふれる端正な本格ミステリ。色の横溢っぷりはあのチェスタトンを思わせるほどだが法月綸太郎の解説にも全く同じことが書かれているので、もう少し何か考えるためにとりあえず「絵画」のモチーフを取り扱った古典作品としてチェスタトン「ダーナウェイ家の呪い」(『ブラウン神父の不信』)とクリスティー「死んだ道化役者」(『謎のクィン氏』)の2作をメモしておく。
2021年に読んだ小説で一番面白かったものを挙げるなら、間違いなく『ゴーレム100』である。「【悲報】最近のラノベさん、あまりにもひどすぎるwwwwww」といった釣りスレに貼られる画像でのみ知っていたベスターを、少なくとも『ゴーレム100』と『虎よ、虎よ!』という2つの奇作の書き手として認識できたのだから2021年はまあ悪くない年であった。『ゴーレム100』のグラフィカルな魅力や翻訳の面白さについては『カモガワGブックスVol.3 〈未来の文学〉完結記念号』所収のコラム「『ゴーレム100』の超絶翻訳を原文と比較してみた」や訳者エッセイ等に詳しいので、そちらを参照してほしい。そして、少なくとも『虎よ、虎よ!』『ゴーレム100』の2作においてベスターは「盲目」のモチーフを反復している、というのが自分なりの感想。これを例のタイポグラフィーに接続して考えると面白いのではと思ったが、これ以上のアイディアは現状とくに何もない。
2021年に読んだ評論・エッセイベスト(順不同)
・『引き裂かれた祝祭――バフチン・ナボコフ・ロシア文化』貝澤哉
・『探偵のクリティック』絓秀実
・『小説のタクティクス』佐藤亜紀
・『小説の聖典――漫談で読む文学入門』奥泉光・いとうせいこう・渡部直己
・『批評の教室――チョウのように読み、ハチのように書く』北村紗衣
・『鏡・空間・イマージュ』宮川淳
・『マンガと映画:コマと時間の理論』三輪健太朗
・『マンガ視覚文化論:見る、聞く、語る』
・『マンガを「見る」という体験――フレーム、キャラクター、モダン・アート』
『小説のタクティクス』『小説の聖典』『批評の教室』はいわゆるバイブル枠で、ここに佐藤亜紀『小説のストラテジー』を加えた4点セットをミス研の後輩に配っている世界線もあったかもしれない。言い換えれば学部1年生のころに読んでおきたかったなあという4冊でもあるので、もし当てはまる人がいたらぜひとも購入することをおすすめする。「読むことと書くことは切り離せない」って4冊とも言っている。(もちろん、実作者以外に小説はわからない、なんて次元の話は誰もしていない)2021年はマンガ研究の一端に触れた年でもあった。ぶっちゃけ咀嚼しきれていない箇所も多いのだが、読む前と読んだ後では間違いなくマンガの読み方が変わるという点において『マンガと映画』『マンガ視覚文化論』『マンガを「見る」という体験』の3冊は非常に優れた「実用書」である。ただ、入手しにくいのが難点。通読していないのでリストからは外したけれど、菅野博之『漫画のスキマ』もまたバイブルに違いなく、ついつい使ってしまう「視線誘導が上手い」「コマ割りが上手い」といった褒め言葉が意味するところを、実作者の視点から徹底的に解剖し尽くした本当の実用書。つまるところ「マンガのストラテジー」であるこの本は当然、「描く」だけでなく「読む」さいの役にも立つはず。
2021年に読んだマンガベスト(順不同)
・『わたしは真吾』楳図かずお
・『ENOTIC』榎本俊二
・『ショート・ピース』大友克洋
・『茄子』黒田硫黄
・『棒がいっぽん』高野文子
・『アップルパラダイス』竹本泉
・『児玉まりあ文学集成』三島芳治
・『転がる姉妹』森つぶみ
・『コミティア30thクロニクル』
小説のリストとは対照的に、吾妻ひでおと楳図かずおと大友克洋と高野文子以外は初めて読んだ作家で埋め尽くされている。あくまでもマンガの絵としての「変容」にこだわりつづけることで、自己と他者をめぐるエヴァっぽいテーマやその他いろんなものが宙づりになり続ける『エイリアン9』は非常に気持ち悪い。黒田硫黄は『セクシーボイスアンドロボ』と迷ったけれど、読むとなんだか元気になるという点においてこっち。『棒がいっぽん』の表題作は『ユリイカ』2002年7月号に再録された初期バージョンと合わせて読むとよいだろう。富沢ひとし、黒田硫黄、高野文子の3人には正しいタイミングで正しい作品に出会えた気がしていて非常に嬉しいのだが、現状まともに作品を語る言葉が思いつかない相手でもある。いつか……。
単行本未収録作のコピーを取るためにわざわざ国会図書館にまで出かけた三島芳治が、2021年で最も入れ込んだ作家ということになるだろう。褒めるにしても貶すにしても、「文学」との対比のなかで語られることが多い三島作品はある意味で不幸だと思う。もっと別のやり方があるはず。『児玉まりあ文学集成』の単行本に記されている参考図書をまとめたscrapboxを作ったので、興味のある方はどうぞ。
2022年も毎日が楽しいといいな。
日記(2021.07.03)
朝起きれない。何時間寝ても気持ち悪い。約束の時間から遅れること1時間30分、アルバイトの申し込みをしたお店から電話がかかってくる。「シスターの紹介ってことですね」と軽いノリで話が進み明日の夕方に面接に行くことになる。
男のことがいつまでも脳裏にこびりついていて、奴の手首や瞳や似合わないリングの形をふとした瞬間に思い出す。もう二度と会うことはないだろうし、仲良くもなければお互い興味もなかったけれど、その形が忘れられない。
前回の日記の続き。ナルシシズムの延長で恋愛する人にとって「好きな人」は自己の映し鏡であり、彼らはかけがえのない他人ではなく己の分身(と思い込んでいるもの)に惚れている。しかし他人は他人であり、思い込みは思い込みに過ぎないという当たり前の事実から生まれる齟齬が、彼らの自己を根本から揺さぶる。自己の崩壊を防ぐためには常に相手を支配し続ける(という錯覚を抱く)必要があり、粘着やストーカーはその典型と言えるだろう。
と、他人の心理を推量する行為それじたいが既に分身と思い込みの構図を反復しているので、この辺にしておきます。
もう会えない人が結構いる。きっと今もどこかで生きているだろう人、死んでしまった人とまちまちだが、この先こういうことが増えていくのだろうな、という予感がある。みんなのことを覚えていられるだろうか。終わりのない撤退戦、敗けの見えた総力戦が少しずつのしかかってゆく。
一覧の一覧
Spotifyで何となく作っているプレイリストの数がそれなりに溜まってきたので、とりあえずまとめておく。10年後に見返したら面白いと思うかもしれない。
・「inou」(2020.02あたり)
当時サブスクにあったgroup_inouの曲を全部入れて自分用に使っていた。いつ作ったのかいまいち覚えてないけど、2020年より前という事はないだろう。
・「20」(2020.05.25)
20曲あるから20。この時よく聴いていた曲というよりも、中学生から現在に至るまでにハマったアーティストを適当に放り込んだといった感じ。サニーデイサービスは全然聴いてなかったけど。初めと終わりでFuckしてるプレイリスト。
・「7」(2020.12.17)
7曲あるから7。このときはダンガンロンパばっかりやってた。ちなみにV3は未だに最後までやってない。この辺でlast.fmに登録した。
・「5」(2021.2あたり)
これもいつ作ったのかはっきり覚えていないけど、試験官アルバイトの待ち時間にずっと聴いていた気がする。コーネリアスもThe Sea and Cakeも非常によい。戦場のメリークリスマスはまだ観てなかったのに入れてる。最後のYelloのミスマッチ感が半端ないけどどういう意図だったんだ……?
・「10」(2021.03.17)
割と気に入っている。順番など結構時間かけて考えていた記憶がある。これを作ってる過程で色んなアーティストを知れたのも嬉しい。個人的に人にリンクを送りつけたりもした。ごめんね。
・「8」(2021.03.23)
後から1曲減らしたせいで、8なのに7曲しかない。テーマはエヴァンゲリオン、他人とつながることです。
・「プログレ」(2021.03.31)
これもそれなりに気に入っている。プログレと銘打った割には偏り過ぎだけど、結局イエスとピンクフロイドが好きなんだな、と分かる。
・「XTC」(2021.04.05)
サブスク上で聴けるアルバムから、初期~中期~後期の個人的ベストXTCを選んだ。やはりEnglish Settlementの4曲の並びが最高。
・「夏以外の季節がなくなった時のために」(2021.04.19)
シンエヴァを観て作ったのだろう。来るべき夏、そして夏以外の季節がない世界に備えるためのプレイリスト。
・「田村ゆりが下校中に聴いている曲」(2021.05.03)
そのままです。
・「田村ゆりが登校中に聴いている曲」(2021.05.03)
ゆり、いつも耳にシャカシャカしてるけど私と話したくないなら言って?
・「田村ゆりが黒木智子とのカラオケで歌っている曲」(2021.05.04)
どちらかというとネモと智子のカラオケっぽい気もするが、まあこういうこともあるでしょう。
・「忘れられた人を思い出す用」(2021.05.24)
いろいろ忘れないために。最近は出かける時によくこれを流している気がする。ソランジュが素晴らしいことを知った。
・「テレビじみている曲」(2021.06.06)
open.spotify.comタイトル通り、タイトルや歌詞にテレビが登場する曲を色々集めてみた。適当だけど。
・「ZYTOKINE feat.nachi」(2021.06あたり)
昔好きだった東方ボーカルアレンジの人。久しぶりに聴きたくなったので。
・「夏休み楽しみ」(2021.06.30)
さっき作ったやつ。みんなで遊ぼう。それはそれとして、戸川純とてもかっこいいですね。
日記(2021.06.30)
これほどまでに何もしなかった1ヵ月というのはおそらく大学生になってから初めてで、気持ち悪い。就活はつまらない。SPI的な論理問題が本当に苦手で、苦しくなる。こういうの得意なことを指して「地頭の良さ」と呼んでいるのだとすれば、確かに地頭厨の言うことなんてまともに受け取る必要なさそう。負け惜しみじゃないぞ。
高校3年の3月だったか、学年の生徒と担任を食堂に集めて卒業懇親会が行われていた。その中で、担任の1人が「君たちは大学でたくさん失恋しなさい」と言っていたことをよく覚えている。しょーもないこと言うなあ、と当時は思っていたけれど、今ではあの言葉の意味がよく分かる……なんてことはなくて、変わらずしょーもないと思っている。結局、どういう意図で言ったのかよくわからない。挫折を経験しろってことなのだとしたら、俺はあの時点でとっくに挫折しまくっていたわけだからムカつくし、所詮は社会的に規定されたものに過ぎない「成功/挫折」の図式を、さらに性愛と結びつけようとする仕草もウザい。
またしても妄想が作り上げた架空の存在と戦ってしまった。刃牙みたいだ。いや、刃牙や愚地独歩は想像上の敵を決して都合のよいサンドバッグにすることなく厳しい修行に励んでいたわけだから、一緒にするのは失礼だろう。
「あなたを好きな人のこと好き(になる)でしょ?」と言われた経験があり、まあ間違っていないから何も言い返せない。見透かされている。そういえば、直接話法の中で心内文や補足が括弧を使って紛れ込むのは小説でもたまに見かけるが、名称が付いていたりするのだろうか。日本語以外の言語でも似たような事は起きているのか、すこしだけ気になる。さておき、自分がナルシストであることはもはや疑いようがないから、好きな人が出来たところで結局その人の何が好きなのかよくわからなくなる。ここで言う「好き」はもちろん性愛を伴ったものに限らない、と断言したいところだが、それすら俺にはよく分からない。性欲を抱くか抱かないかのラインがすくなくとも自分には多少はっきりとあるみたいだが、普遍的で絶対的なものではない。よく「恋愛的に好き」「友人として好き」とか言いますが、結構差別的な言辞だと思う。さらに俺にとって「友人/恋人」の区分けはナンセンスですらあり、なぜなら友人も恋人も皆じぶんの映し鏡に過ぎないからだ……という自虐こそまさにナルシシズムの再構成で、どうしようもない。シスヘテロ男性のおのれが抱く性欲について、きっともう少し真面目に考える必要がある。
他人のことを他人として愛したり信じられたりする人がうらやましい。「推し」とは、そういう人にだけ与えられた特権であろう。(なかには自覚のないナルシストもいる気がするけど)結局自分のところに回帰してくるマッチポンプ的な推しはもはや推しではない。だとすれば、あまりにも異質で気持ち悪く、最悪かつ理解できないと死ぬまで思い続けられるような存在こそが俺にとっての「推し」になる。そして、そんな人はどこにも存在しない。
毎日毎秒、気持ち悪いと思い続けたいな!
はい、今日のHappy Daysは終わり。お疲れ様でした。