しまってないしなってない

連想ゲーム式選書チャレンジ

 このままお蔵入り(?)になってもしょうがないので、某所に載せていたやつを一部転載する。頓挫した企画にはそれだけである種のフェティシズムをくすぐられないだろうか。廃墟巡りに通じるものがあるのかもしれない。たとえばサンリオSF文庫を、海外SF小説を翻訳・紹介したいという夢と熱意の壮大な廃墟だと考えれば、あの文庫がいまだにマニアの間で高い人気を誇っている理由がすこし分かる気がする。さて、廃墟といえば黒沢清である。彼の映画のなかで、廃墟がいかに重要な役割を果たしてきたか、皆さんご存じだろう……といった具合に、連想ゲーム式に作品を数十作あげる試みを数か月前に1人でやっていた。意外に出てこないもので、けっこう苦労した覚えがある。しかしいざ思い浮かぶと、作品どうしをつなぐ自分でも意識していなかったネットワークが浮かび上がってきて楽しいのだ。

 

 転載する過程で新たに連想された作品にも分岐しながら、飽きるまで書き連ねてゆく。媒体は小説でも漫画でも何でもよいことにした。ぼく自身他人の選書を見るのは割と好きだし、たとえ自己満足でも、1人でも多くの目に触れる機会を作った方がいつか良いことある気がするのでね……。(👈 弱気か!😹)

 


 

 

1.『シンドローム佐藤哲也

 

 隕石が降ってくる。地面に穴が穿たれる。日常は学校と共に転覆する……。古典的なパニックSFのフォーマットを取りながらも、語り手たる「ぼく」の思考はクラスメイトの「久保田さん」の周りをぐるぐると旋回し続け、切り詰められた一人称の語りとして小説世界を立ち上げる。ジュブナイルSFの美しい大傑作であり、単行本版のみ収録の西村ツチカの挿絵が余りにも素晴らしい。

 

 

 語り手に単なる「トリック」以上の役割が与えられている作品……ということで

 

2.『葬儀を終えて』アガサ・クリスティー

 

 前に書いた記事でも言及している。『アクロイド殺し』以上にスキャンダラスな「語り」を持つ後期の傑作だが、話題に登ることが少ない。(気がする)葬儀を終えた瞬間に発せられた「彼は殺された」の一言をきっかけに、誰にも予想できない犯罪が始まる。絵画といったクリスティーの重要モチーフも数多く登場する。

 

 

 佐藤哲也を紹介したのだから、当然もう一人にも触れたい……ということで

 

3.『小説のストラテジー佐藤亜紀

 

 「小説の読みかた」徹底解説本。小説とは作者と読者による遊戯的な闘争である。書き手とは人格を持った「作者」のことではなく、文章から今まさしく立ち現れてくる〝存在〟のことである。言葉は決して「正確に」通じない――数々の作品例を挙げながら、おもしろく小説を読むための必須「戦略」を授けてくれる著者の手つきが実に鮮やか。

 

 

 読者と作者による遊戯的な闘争の小説、とはまさしく……ということで

 

4.『カメラ・オブスクーラ』ナボコフ

 

 絵画評論家の主人公は、鮮やかな〝色〟のモチーフにまみれながら少女マグダの魅力におぼれてゆく。最終的に視力すら失った彼が「手触りで」室内を歩き回り、カーテンやソファの「嘘の色」を教えられてからかわれ、間男が潜んでいることにすら「気が付かない」様はまさしく小説の読者の姿そのものである。タイトルもここに掛かってくる。読者を手玉に取り、みずからのコントロール下に置こうとするナボコフは、遊戯的な闘争の中で読者が真に立ち向かうべき大ボスと言えるかもしれない。

 

 

 ナボコフの諸作品のように、あまたの「解釈」を生みだす作品と言えば……ということで

 

5.『デス博士の島その他の物語』ジーン・ウルフ

 

 〝「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロも、獣人も」/「ほんと?」/「ほんとうだとも」彼は立ち上がり、きみの髪をもみくしゃにする。「君だってそうなんだ、タッキー。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみだって同じなんだよ」〟(「デス博士の島その他の物語」)

 

 有名な一節を含む表題作も勿論すばらしいのだが、なんといっても白眉は「アメリカの七夜」だろう。発表から今まで「解釈」が幾重にも重ねられてきたこの「解釈をめぐる物語」は、小説を読むことの面白さを再確認させてくれる。ちなみに「眼閃の奇蹟」もまた、盲目の少年を主人公にすえた小説である。彼の「超能力」によって、文字通り視界が開けるような鮮烈な描写が展開されている。

 

 

 超能力を有した盲目の登場人物……ということで

 

6.『ゴーレム¹⁰⁰』アルフレッド・ベスター

 

 あの、読んでる途中の作品を入れてすみません……。しかし連想してしまったものは仕方がない。22世紀のアメリカ合衆国に位置する巨大都市「ガフ」では、水不足によって人々は体を洗うこともままならない。そのため、この都市では香水作りが主要な産業となっている……。この設定によって小説には〝におい〟のモチーフが頻出するのだが、それを踏まえた上で主要人物の一人に「生まれつき超能力を使っていたため、自らが盲目であることに気が付かなかった」という設定が与えられているのが面白い。「見えない」人間(大量殺戮をはたらくゴーレムも目に見えない)たちは〝におい〟によって接近する? だとすれば、何度も差し込まれるグラフィックにも、単なる作者の稚気以上の意味を見出せる気がする。

 

 

 目に見えないもの……ということで

 

7.『魔法』クリストファー・プリースト

 

 プリーストの中でも、その技巧が最も分かりやすい作品。爆弾テロによって記憶を失った主人公の前に、かつての恋人を名乗る女が現れる。彼女の手で過去のロマンスが明かされるかに見えて、物語は徐々に不穏な様相を帯びてゆく。やがて「真相」が見えたときの衝撃は他の何者にも代えがたい。

 

 

 『魔法』からの連想でこの作品を出すと、どちらか一方の読者にはネタバレになるのかもしれないけど、両作品とも肝はそこ(だけ)じゃないと思ってるからあげちゃいまーす……ということで

 

8.『電氣人閒の虞』詠坂雄二

 

 語ると現れる――という都市伝説「電気人間」を追いかけるルポライターの記録が、断章形式で綴られてゆく。小説全体に仕掛けられたものについて言及することはしないが、ここで行われていることもまた、たんなる「トリック」以上のものとして受け止められるべきだろう。実際『魔法』と合わせて読んでも面白いかもしれない。

 

 

 目に見えないもの、都市伝説……ということで

 

9.『電脳コイル

 

 この作品もまた、視覚を巡る物語として見るべきだろう。「メガネ」をかけることで見えるようになる電脳空間、現実世界と電脳空間の間に穿たれた陥穽としての「古い空間」……。都市伝説や心霊写真のようなモチーフもそれに絡めて考えるべきかもしれない。電話が何度も登場するのも面白い。

 

 

 電話がたくさん登場するアニメ……ということで

 

10.『新世紀エヴァンゲリオン

 

 いま読み返すと大したこと書いてないけど、エヴァについても以前ここで話をした。まあでも、間違ったことは書いていないのではないか。このテーマに沿ってエヴァを見てみる。この作品のなかで、電話(エヴァ搭乗者と指令室を繋ぐ回線も要するに電話だ)は基本的にディスコミュニケーションの装置として機能している。何度も登場するシンジのラジカセや、第9話「瞬間、心、重ねて」など、エヴァと「音」の関係は重要だと思うのだが、これ以上は何も思いついていない。第22話にて、ドイツ語を話すアスカに向けられた「知らない言葉で話してるとアスカが知らない人みたいだ」という台詞がよい。

 

 

 知らない言葉で話す人……ということで

 

11.『オリエント急行の殺人』アガサ・クリスティー

 

 説明不要の古典的傑作……とはいえ、いつ読んでもおもしろい。小説の「舞台」と「登場人物」、そして「犯罪」がこれ以上ない程密接に結びついていること、これらの関係を解き明かすポアロの(そしてクリスティーの)手つきが完璧に洗練されていること、それが『オリエント急行』最大の魅力と云える。列車にはどのような人間が集まるのか? その時起こる犯罪は何か? 〝知らない言葉で話す〟ベルギー人、エルキュール・ポアロは、「異邦人≒探偵」として何を見るのか。

 

 

 探偵と異邦人……ということで

 

12.『第八の日』エラリー・クイーン

 

 アヴラム・デイヴィッドスンによる代作らしい。エラリー・クイーンと異邦人……と言えばライツヴィルなわけだが、ここは敢えて『第八の日』を召喚する。「殺人が決して起きない村」に迷い込んだエラリーが解き明かすのは、果たして本当に殺人事件なのだろうか。極限状態の中で「事件を解決すること」の意味を問うた作品としては、一連のライツヴィルシリーズや『九尾の猫』にも接続可能な作品である。ラストシーンは圧巻。

 

 

 クイーンのゴーストライターと言えば……ということで

 

13.『宇宙探偵マグナス・リドルフ』ジャック・ヴァンス

 

 変幻自在の老探偵、マグナス・リドルフの活躍を集めた短編集。マグナスと同じく、収録された短編もミステリからSF、不条理ギャグまで様々なジャンルを変幻自在に横断してゆく。〈ジャック・ヴァンス・トレジャリー〉として、他に『スペース・オペラ』と『天界の眼:切れ者キューゲルの冒険』の2冊が刊行されているので、これが気に入ったら合わせて読んでみるとよいのでは。

 

 

 おや、このカバーイラストは……ということで

 

14.『それでも町は廻っている石黒正数

 

 一番好きな漫画である。この作品について語る時はいつも個人的な話ばかりしてしまう。最終巻を誰よりも早く買うために神保町の書泉グランデを訪れたあの日を今でも昨日のことのように思い出すのだが、4年以上も前らしい。おそろしい。今も昔も本当に絵が上手い人だと思うが、個人的にはそれ町10巻前後の頃の絵が一番好きだ。作中でオマージュが捧げられているように、それ町のキャラクターを構成する1本の細い線は大友克洋のそれに近い。こういう絵は見てるだけでキモチよくなれる。

 

 

 線がキモチいい漫画……ということで

 

15.『気分はもう戦争矢作俊彦大友克洋

 

 一番「線」がキモチいいのは、『AKIRA』でも『童夢』でもなくこの作品である。大友克洋丸ペンのみで漫画を描くことは有名だが、『気分はもう戦争』ではペン先がケント紙をガリガリ削る音すら聞こえてきそうだ。また、これほどまでに多種多様なパロディと引用で溢れかった漫画もそう無いのではないか。正直いまだに元ネタが把握できていない箇所がたくさんある。そういう意味でも、流し読みを許さない漫画と呼ぶことが出来るだろう。(?)

 

 

 流し読みを許さない漫画……ということで

 

16.『BLAME!弐瓶勉

 

 相棒のシボも含めて、登場人物の体格は階層ごとに伸縮を繰り返す。しかし背景の巨大さと主人公の霧亥には変化がないため、読み進めていくうちにだんだん遠近感が狂ってきて面白い。緻密な描き込みも視線を散逸させる。意図的かは分からないが、流し読み出来ないような仕掛けがあちこちに散りばめられた、読みづらいことがむしろ快感になりうる作品。

 

 

 『BLAME!』に強い影響を受けたと思われる作品……ということで

 

17.『JUNK HEAD』

eiga.com

 

 現在公開中のストップモーション・アニメ。「巨大な竪穴」を上下するという舞台設定と構成、キャラクターの造形など明らかに『BLAME!』の影響下にあるのが分かる。盛り上がりでとりあえずスローを入れるのはやめてほしいが、トータルとしては面白い作品。3部作らしい。

 

 

 もうひとつ、弐瓶勉からの連想……ということで

 

18.『チェンソーマン』藤本タツキ

 

 作中に登場する「チェンソーマン」のイメージが弐瓶勉『アバラ』からの引用であることは割と知られている……のかな。

 

 マンガやアニメにおいて、キャラクターの感情や性質を表す記号として「瞳」がしばしば用いられることは経験的に誰もが理解している。たとえば、ハイライトのない瞳は「絶望」や「悪」を表し、開いた瞳孔が描き込まれた瞳は「驚き」や「狂暴さ」を表す……といったように。もちろん、瞳の意味に普遍的な定義がある訳ではない。瞳は、あくまでも個別の作品のなかで、キャラクターデザインや物語の展開に合わせて相対的な意味を与えられている。当たり前と言えば当たり前すぎるこの事実を確認するための1つの例が、藤本タツキチェンソーマン』だ。この作品に登場するキャラクターの瞳は基本的に簡潔な円と点のみで構成されており、いかなる状況においても決して変化を被らない。ゆえに、瞳孔が開いているように見えるからといって彼は驚いている訳ではないし、「グルグル目」だからといって彼女が混乱している訳ではない、と『チェンソーマン』の読者は考える。ここでは、瞳はただ「目である」ことを表し、それ以外の意味を徹底的に剥奪されているのだ。

 

 まあ結局「そらそうよ」という話でしかないのだが、明確なセオリーが存在しているように思える「瞳の表現」は、作者ごとにかなり変奏されている印象がある。(これも当たり前なのだが)しかし改めて「瞳の表現」に注意して読むと、色々と面白い発見がある。たとえば、「写実的」な漫画家の代表格とされる大友克洋の『AKIRA』では、登場人物が超能力を使う際に瞳にスクリーントーンが貼られるという「記号的」かつオーソドックスな方法が取られている。そもそも記号的でない漫画などあり得ないとは言え、これは個人的にすこし面白かった。超能力少年を巡る『AKIRA』は、すなわち視線劇の漫画として構成されていると言えるだろう。

 

 

 漫画ばっかりになってきた。視線劇の作品……ということで

 

19.『許されざる者

 

 キャメラを用いて何かを映す以上、すべての映画は一種の視線劇にしかならない。中でもとりわけ、「敵を狙った視線」をそのまま弾丸がなぞる西部劇は、視線劇としての映画のありようを前景化したジャンルだと言えよう。引退したガンマンの瞳は何を見るのか。終盤、荒野の向こうを見つめるイーストウッドの顔、というか瞳がすごい。あれだけはいつまでも覚えている。

 

 

 疲れてきた。引退と復活……ということで

 

20.『九尾の猫』エラリー・クイーン

 

 『十日間の不思議』で最大の挫折を味わったエラリーが復活するためだけの「物語」ではないと思う。それでは結局何も変わらない。探偵が推理することは、小説家が物語を作り上げることと重なるのだから。

 

 

 となれば、この作者のこの作品を再読する必要がある……ということで

 

21.『ふたたび赤い悪夢』法月綸太郎

 

 

 限界っぽいのでこの辺にしておく。21作品……そんなに伸びなかった。要素還元的な本当の連想ゲームにならないようにすると、やっぱり難しい。皆さんも暇なときにやってみてください。

 

 

 

アガサ・クリスティーの小説が持つ射程の話

 去年担当した読書会から。レジュメやメモを読み返すと我ながら胡散臭い記述や根拠薄弱な箇所がたくさんあったので、重要そうな部分のみ抜粋して大幅に改稿した。あとクリスティーは正直あまり読んでいないので、勘違いなどあれば教えてください。

 


 

 

葉巻の灰については、専門的に研究したこともあるし、じっさい僕はそれについて論文まで書いたくらいだ。葉巻でも刻み煙草でも、在来種のものなら僕は灰を見ただけで見分けられるつもりだ。(コナン・ドイル『緋色の研究』延原謙訳)

 

いいですか、先生、わたしは科学的な操作方法に頼る人間ではありません。わたしが探るのは心理学的な面で、指紋や煙草の灰ではありません。(アガサ・クリスティーオリエント急行の殺人』山本やよい訳)

 

 コナン・ドイルアガサ・クリスティーをわざわざ並べて引用したのは、彼らが書く推理小説は「推理の方法」において全く性質が異なるように見えるからだ。シャーロック・ホームズは、基本的に足跡や指紋、煙草の灰といったイメージを「見る」ことで推理を始める。*1「あなたは○○で△△、さらには過去××の経験があり最近は■■していますね?」「一体どうして分かったんだ!?」「観察だよワトソン君」という訳だ。対して、エルキュール・ポアロが観察し推理の材料とするのは、人間の心理学的な面だという。これは「目に見えない」ものだと言い換えることが出来るかもしれない。

 

 まずは両者の共通点に着目する。こう見ると、名探偵の条件とは「有能な観察者」であることらしい。そして、ワトソン博士やヘイスティングス大佐は「無能な観察者」として叙述を担当し、読者に対して名探偵の名探偵っぷりを引き立てる。具体的な例を見てみよう。

 

「あの男はなにを探しているのかな?」と、質素な服装のがっしりした男を指さした。その男はさっきから往来のむこうがわを、しきりに家の番号札をのぞきこみながら、ゆっくり歩いているのである。大きな青い封筒を手にしているのは、きっと誰かの手紙でも届けるのだろう。

(中略)

ええと、さっきの男の手の甲には、道のむこうがわを歩いていてもちゃんと見えるくらい大きな錨の刺青があった。それだけで海の匂いがするじゃないか。しかも一方に軍人らしい態度があり、型どおりちゃんと頬髯もはやしている。そこで海軍上がりとまではわかる。ところが、あの男にはいくらか尊大なところがあって、なんだか命令的な態度が見える。あの男の頭の傾けかたと、短杖の振りかたには君もむろん気がついたろう? それから、見たところ堅実で、まじめな、中年の男だ――と、こういった材料を寄せ集めた結果、僕は兵曹あがりとにらんだのだ(コナン・ドイル『緋色の研究』33-36貢、新潮社、延原謙訳)

 

 中略前がワトソンによる地の文、中略後はホームズの台詞である。ホームズの観察の精密さ、ワトソンの観察の杜撰さがよく分かる一節だ。

 

 だが、われわれ読者はどうだろうか? もし『緋色の研究』にホームズが登場せず、ワトソンの叙述のみで全てが構成されていたとしたら? 引用した一節を、中略後の台詞を隠してもう一度読み直してほしい。われわれは、「往来の向こうがわを歩いている男」を、ワトソンの観察通りにただ「質素な服装のがっしりした男」としてイメージすることしかできない。あらゆる小説は語り手の「語り」によって初めて読者の前に立ち現れる。その語り手次第で対象が「見えたり見えなかったりする」ようでは、何も見えていないのと同じことだ。小説における「最も無能な」観察者は、われわれ読者に他ならないのだ。

 

 小説を読むことは、原理的に盲目的な行為だと言える。*2この事実を前景化した技法が、いわゆる「叙述トリック」だと考えることも出来るだろう。さておき、無能な観察者には見ることの適わないイメージ群を繋ぎ合わせ、つじつまの合う一つの物語へと再構成するホームズの推理方法は、そのまま小説の語り手と読者の関係へと重ねられる。つまり、全てのホームズ的な推理小説は、ある種のメタフィクションとして捉えることが可能なのだ。

 

 読者が何も見えていないということは、裏を返せば小説の登場人物は必ず何かを「見てしまって」いることになる。ポアロも、結局は視覚的なイメージを観察しているのだ。引用した『オリエント急行の殺人』にしたところで、彼は相手の容姿や仕草を見ることで性格や生い立ちを推理しているに過ぎない。おそらくクリスティーはアンチ・ホームズとして一連のポアロ物を書いていたように思うのだが、本質的にはホームズ的推理小説の重力圏から逃れられていない。(そんなことが可能なのか?)しかし、だからこそクリスティーの小説にたびたび登場する絵画的なモチーフの意味を考える必要があるだろう。『葬儀を終えて』は絵画を巡る犯罪の物語であり、『謎のクィン氏』に収録されている「死んだ道化役者」はまさしく絵画が推理の決め手となる。『5匹の子豚』では容疑者5人の手記をポアロが読むというメタフィクション的構成が取られ、さらにそれぞれの記憶を再構成する上で絵画が重要な役割を担う。もっと踏み込んだことが書けたら良いのだが、ここに何かありそう! というだけで現状何もアイディアがない……。

 

 未読のクリスティー作品には、まだまだたくさんの絵画や写真が登場するとにらんでいる。(教えてください)ともかく、彼女が残した小説の多くが、推理小説というジャンルあるいは小説そのものの性質に意識的な構造、叙述方法を選んでいることは確かだ。今読んでも面白く、古さを感じないのはそのためだと思う。『アクロイド殺し』や『葬儀を終えて』の「アンフェア」な地の文も、そのような観点から捉えなおす必要があるだろう。

*1:カルロ・ギンズブルグ『神話・寓意・徴候』では、人類史上のパラダイムという観点から推理小説の起源や意義についての考察が行われている。ホームズの推理方法が解剖学や絵画鑑定に起源を持つという話は面白いのだが、どれほど根拠のあることなのかは分からない。読書会ではどちらかというとこっちがメインになってしまった

 

*2:ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』は、まさにこの話をテーマにしたとても面白い小説である

内輪ネタに頼らないと喋れない俺とVTuberについて

 毎日毎日飽きもせず、別に上手くもない東方をプレイしていると高校1年の夏を思い出す。あれは間違いなく俺の現実逃避だったのだから、7年経った今もやっていることは変わらない。いや分かってんだよ、毎日の現実逃避が一歩一歩後の地獄に向かってるということに……。

 

 しかし、2014年には世界中どこを探しても存在しなかったコンテンツが2021年の日本では(まだ)流行っていて、人はそれをバーチャルユーチューバーなどと呼んでいる。自分は実況や配信文化には触れずに育ってきたから、ニコ生もTwitchも一般的なYouTuberのこともよく分からない。VTuberが登場して初めて配信文化に触れた、きっと世の中に沢山いるであろう有象無象の1人が俺である。ここで前提になっている「VTuber=配信者」の図式を苦々しく思う向きもあるかもしれないが、いわゆる「配信者」なら別に対象は何でもよい。その中で自分が唯一知っているのがVTuberであるというだけの話で、以降VTuberという単語が出てきたら、ニコ生主でもミルダム配信者でもあなたの脳内で好きなように置き換えてもらって構わない。

 

 俺だけの話ではないと思うが、東方をやっていると他人のプレイ動画も見てみたくなる。とりあえずYouTubeで「東方 VTuber」と検索してみよう。すると、まず間違いなく「Marine Ch. 宝鐘マリン」が上位に表示される。宝鐘マリンは、2021年6月時点でチャンネル登録者数が130万人を超える、正真正銘の大物VTuberである。

 

youtu.be

(46:50〜)

 

 宝鐘マリンのように、ネットミームネットスラングの知識があることをそれとなくほのめかし自らの売りにするVTuberとして、名取さなの名前をあげてみたい。

 

【雑談】ポニテをお披露目しAIボイスチェンジャーと遊びまくる配信 - YouTube

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 名取さなが「サンガツ」と発言し、チャット欄で「お、Jか?」と返す一連の流れには、ネットスラングを使うキモチよさが全て表れていると言ってよい。文脈を共有していることを確認し合い「なんJ民」のアイデンティティを確立すると同時に、「今は9月だぞ」と返してしまうような「ネタがわからない」人間を排斥する。なんJ民でなくとも、「草」「古のやつやん」と返すことで「ネット民」になれるし、ひっそり「今北産業」と書き込むだけでもよい。文脈の共有による同化と排斥こそ、ネットスラング最大の肝である。

 

 これは、5ちゃんねるの掲示板やニコニコ動画の「例のアレ」タグに限った話ではない。あらゆるVTuberとそのリスナーは似たようなことをやっている。最もわかりやすい例が、月額のメンバーシップに加入することで貰えるスタンプだろう。


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サンガツ」がスタンプに、「なんJ民」がメンバーシップに名前を変えただけで、行われていることは全く同じだ。しかも、ここではお金を払わないと内輪に入れてもらうことすらできない。

 

 VTuberの配信内で生まれたネタやノリ(≒スタンプ)は「切り抜き動画」によって拡散され、切り抜きを見たリスナーは飽きもせず似たようなことをVTuberに要求する。望まれるがままに彼らは同じネタを擦り続け、また切り抜きが作られる……という終わりのないサイクルがVTuberをめぐる「内輪」の中で繰り広げられ、彼らの人格を形成してゆく。

 

youtu.be

 

 「貧乳」「巨乳」「サイコパス」「ヤンデレ」「語尾」「年増」「百合」「カップリング」「キレ芸」……望まれるがままに定着させてきたネタたちは、食傷気味であろうと「中の人」がウンザリしていようと、もう剥がすことはできない。

 

youtu.be

 

 その上で俺が選ぶのが、先月行われていたホロライブ3期生ワードウルフの配信である。見てごらん道化師を! 彼らはいつものように同じネタを繰り返しているのだが、どうにもぎこちなく、取ってつけたような印象がある。このぎこちなさの向こうに、VTuberの「リアル」な人格が隠されているように思える。この「リアル」は、普段彼らが生活や過去の話をすることで醸し出される「リアル」とは全く性質が異なるものだ。我々に「見えて」いる時点で、そのような「リアル」は内輪ネタによる安易なキャラ付けと本質的には大差がない。「リアル」は、決して目に見えないのだ。そして「バーチャル/リアル」の人格が分裂しかけているワードウルフ配信のような状態こそ、無際限にネタを取り込み続けるVTuberたちの最終形態と言えるのかもしれない。

 

 初めに書いたように、これは何もVTuberに限った話ではない。あらゆる配信者やTVタレント、さらには我々じしんすらも、他人(自分)の視線によって分裂させられ、架空の人格を作り上げられている。我々が生きる言語と視線の世界は、ある意味、というかまさしくバーチャルリアリティの世界である。人は皆VTuberなのだ。

 

 言ってみれば至極当たり前なこの事実は、TVやインターネット、SNSの発達によってより一層顕在化したと考えられるのかもしれない。その時、我々は内輪ネタによって「共有の架空の人格」を作り上げ、そこに自らを委託してキモチよくなる。現在のインターネットには、「サンガツ」「〜ぺこ」といった架空の言語を話す架空の人格が蔓延っている訳だ。

 

 「俺」もまた同様である。この短い文章にたびたび登場する一人称の「俺」は、必ず何かしらの内輪ネタを挟まずにはいられない。ミームの借用から小説の引用まで内容は様々だが、背後に文脈が隠されていることを仄めかしつつ、「わかる奴」には思わせぶりな目配せをする。このような仕草は要するに「キモい」のだ。

 

 

 VTuberやなんJ民のようにあからさまでなくとも、内輪ネタから完全に逃れられている人を自分は知らない。キモくないように喋れますよって人がいたら教えてください。 

  

エヴァ旧劇の初見の所感

 『Air/まごころを、君に』の話。観るのは実は初めてだったけれど、めちゃくちゃ面白い。だいたいにおいて「意味不明」と揶揄されるこの「旧劇」だが、全然そんなことはないように思う。とりあえずの所感をここにメモしておくが、もうさんざん言われていることかもしれないので既視感があったらスルーでお願いしたい。


 コミュニケーションの不可能性の中でひとつになりたいと願うこと。それが『新世紀エヴァンゲリオン』のテーマであり、TVアニメ版はまさしくそのような最終回を迎える。とは言っても、あまりにも唐突な印象が残る(そして実際に製作時間が足りなかった)この「最終回」を、偏執的とすら言える密度でリメイクしたものが「旧劇」だろう。

 

 「ひとつになりたいと願う」ために、『エヴァンゲリオン』の登場人物たちの恋愛は常にすれ違う必要がある。ミサトと加持、リツコとゲンドウ、ゲンドウとユイ、シンジとアスカ、そして最後に明らかになるネルフ職員たちのものも含めて、彼らの恋愛感情は常にすれ違うか一方通行で決して満たされることはない。しかし「旧劇」においては、魚眼レンズや月といった「円環」のイメージ、あるいは海やLCL溶液という「水」のイメージが来るべきサードインパクト――ひとつになること――を暗示し続ける。周りの人間は全て自分の写し鏡でしかない自意識の塊たる碇シンジは、意識上ではサードインパクトを達成したともいえる自閉的なナルシストであり、意識と現実との齟齬に悩み続けるその姿は「オタク」のカリカチュアなのかもしれず、登場人物の誰よりも「ひとつになること」を望む「主人公」として物語を駆動させるだろう。ついに本当のサードインパクトが達成されたとき、人びとの身体の間の境界(ATフィールド)は消滅し、恋愛が「成就」し、直接的なセックス描写が画面に溢れかえり、人びとは「ひとつに」なる。


 それでもなお「あなたとだけは絶対に死んでも嫌」と拒否されるのは、碇シンジだけではない。この映画を観ているわれわれ「オタク」もまた拒否され、「卒業」を促される。「実写パート」で映されるような、綾波とアスカのぬいぐるみを膝に載せて最前列でエヴァを観るような「オタク」は映画館の外に出て、絶対に達成不可能な「コミュニケーション」に、傷つけられながらも向き合わなくてはならない。サードインパクトは終わり、月は引き裂かれ、シンジとアスカは「海の外」である浜辺に打ち上げられる。もはや「ひとつではない」からこそ、首を絞め、頬に触れることが出来る。そうして再開されるのは「気持ち悪い」と吐き捨てられるような、傷つき合い分かり合えない「コミュニケーション」に他ならない。

 

 「Air」すなわち「空気」によって(LCLが「空気」として機能していたように)人びとは「ひとつ」に結びつけられる。そして「まごころ」とは「コミュニケーション」の先にある、決して知ることの出来ない何かのことだ。

 あまりにも比喩が直接的過ぎるがゆえに、文字通り平板なアニメになっている気もするこの『Air/まごころを、君に』は全くもって「意味不明」な映画ではない。むしろ、良くも悪くも「意味が分かり過ぎる」映画ではないだろうか。