しまってないしなってない

エヴァ旧劇の初見の所感

 『Air/まごころを、君に』の話。観るのは実は初めてだったけれど、めちゃくちゃ面白い。だいたいにおいて「意味不明」と揶揄されるこの「旧劇」だが、全然そんなことはないように思う。とりあえずの所感をここにメモしておくが、もうさんざん言われていることかもしれないので既視感があったらスルーでお願いしたい。


 コミュニケーションの不可能性の中でひとつになりたいと願うこと。それが『新世紀エヴァンゲリオン』のテーマであり、TVアニメ版はまさしくそのような最終回を迎える。とは言っても、あまりにも唐突な印象が残る(そして実際に製作時間が足りなかった)この「最終回」を、偏執的とすら言える密度でリメイクしたものが「旧劇」だろう。

 

 「ひとつになりたいと願う」ために、『エヴァンゲリオン』の登場人物たちの恋愛は常にすれ違う必要がある。ミサトと加持、リツコとゲンドウ、ゲンドウとユイ、シンジとアスカ、そして最後に明らかになるネルフ職員たちのものも含めて、彼らの恋愛感情は常にすれ違うか一方通行で決して満たされることはない。しかし「旧劇」においては、魚眼レンズや月といった「円環」のイメージ、あるいは海やLCL溶液という「水」のイメージが来るべきサードインパクト――ひとつになること――を暗示し続ける。周りの人間は全て自分の写し鏡でしかない自意識の塊たる碇シンジは、意識上ではサードインパクトを達成したともいえる自閉的なナルシストであり、意識と現実との齟齬に悩み続けるその姿は「オタク」のカリカチュアなのかもしれず、登場人物の誰よりも「ひとつになること」を望む「主人公」として物語を駆動させるだろう。ついに本当のサードインパクトが達成されたとき、人びとの身体の間の境界(ATフィールド)は消滅し、恋愛が「成就」し、直接的なセックス描写が画面に溢れかえり、人びとは「ひとつに」なる。


 それでもなお「あなたとだけは絶対に死んでも嫌」と拒否されるのは、碇シンジだけではない。この映画を観ているわれわれ「オタク」もまた拒否され、「卒業」を促される。「実写パート」で映されるような、綾波とアスカのぬいぐるみを膝に載せて最前列でエヴァを観るような「オタク」は映画館の外に出て、絶対に達成不可能な「コミュニケーション」に、傷つけられながらも向き合わなくてはならない。サードインパクトは終わり、月は引き裂かれ、シンジとアスカは「海の外」である浜辺に打ち上げられる。もはや「ひとつではない」からこそ、首を絞め、頬に触れることが出来る。そうして再開されるのは「気持ち悪い」と吐き捨てられるような、傷つき合い分かり合えない「コミュニケーション」に他ならない。

 

 「Air」すなわち「空気」によって(LCLが「空気」として機能していたように)人びとは「ひとつ」に結びつけられる。そして「まごころ」とは「コミュニケーション」の先にある、決して知ることの出来ない何かのことだ。

 あまりにも比喩が直接的過ぎるがゆえに、文字通り平板なアニメになっている気もするこの『Air/まごころを、君に』は全くもって「意味不明」な映画ではない。むしろ、良くも悪くも「意味が分かり過ぎる」映画ではないだろうか。